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   育児休業法が施行された翌年、1993年に育児休業を民間企業でとった。                このときの取得率は0.00001%であった。
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イクメン 太郎
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男性
職業:
エンジニア
趣味:
育児
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 2024/04/24 (Wed)  at 22:39:59
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 2011/07/18 (Mon)  at 23:23:52
外国為替証拠金取引 2011年2月18日、NHKの7時のニュースで「イクメン」という言葉を聞いた。
育児休業をとって、育児、家事に参加するお父さんのことらしい。
ニュースでは、さも最先端の先駆者のような、今風の顔をしたお父さんたちが、子供たちとハイハイハイと親しに遊んでる映像がでていた。
お父さんの育児休業取得率は1.72%と低く、それを支援するNPOが繁盛していると訴える。

私は今から18年前、1993年に育児休業をとった。育児休業法が施行されて、お父さんも取得できるようになったのが1992年であった。このときの取得率は0.00001%であった。
希という取得率である。ちなみに私は100人足らずの一般企業で公務員ではない。
公務員は親方日の丸なので、何の気兼ねなく取得できる。何しろ我々の税金で食っているのだ。だから取得率は高い。私は公務員以外で取得した何十番目かであった。

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 2011/07/18 (Mon)  at 23:33:41
1991年秋、長男誕生予定日半年前にさかのぼる。
ここは東京お茶の水の三楽病院産婦人課棟、教職員御用達の病院である。
お母さんの行きつけであった。
育児休業の取得予定でしかも、出産立ち会いのお父さんを前提とした講習会である。
夫婦で参加して、予定されている講義を3回以上参加しないと、お父さんが出産立ち会いとして分娩室に入れない。
講義の内容は、出産とはから始まるり、リスクについて、出産前後の心がまえなどが講演される。
そのときの参加者は20組ぐらいだったと思う。
今考えると、かなり先進的だったと思う。19年も前のことである。(2011年現在)当然、平日昼間に行われ、会社は有給休暇をとって参加した。
講義の中で、ラマーズ法という分娩時の呼吸法の練習がある。
それが「ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー…」と力んだり、力を抜いたりする。
ヒッヒッフー、ヒッヒッフー と、お母さん、お父さん2人で声を出して練習した。

この講習会と通じて、いかに女性の出産という大事業が人生において意義深いものか、リスクを背負う大事事業かを、改めて認識を深めた。
これは育児休業を取るという事実がなければ一生はわからない。
その意味では育児休業取得は子育にとって必須条件となる。

「イクメン」と呼ばれたいあなた。
育児休業は、お母さんが妊娠したときから始まっている。
特に、女性の一大事業である「出産」をはずさないでほしい。
お母さんのために、有給を惜しげもなく使い果たしてほしい。



 2011/07/19 (Tue)  at 00:08:36
1992年4月1日、お母さんは1年間の産休に入った。
出産予定日の40日前であった。
産休にはいると同時に帰省して、じいちゃんばあちゃんのいる実家で
待機していた。それがなによりも一番安心であった。

ちなみに、お母さんは東京都職員、区教諭であった。
女の先生は教育現場では必要な存在であり、職務上優遇されている。
産休代替えの先生という職分があり、お母さんのかわりにその先生が派遣されてくる。
学校の職場では滞りなく引き継がれる。

お母さんは
3年後の次男出産時にも産休を取得した。
お母さんが、”専業主婦”となったのはこの2年間だけである。
言い返すと、僕は2年間だけ専業主婦を持ったことになる。

ちなみに我が家は独立採算制でスタートした。
家事、家計、仕事、育児…基本的にすべて平等に負担する。
いわゆる今で言う、男女共同参画らしい。
これは、経済的な理由よりもお互いの人権を尊重する事であった
ちなみにそこらにある、役所のこのたぐい企画はかけ声だおれである。
やめてもらいたい。全く税金の無駄使いである。

 2011/07/19 (Tue)  at 00:09:42
1992年5月11日、会社に陣痛が始まったと、帰郷先から連絡が入った。僕はとりいそぎ冠婚葬祭の休暇をとり、車で飛ばしその日のうちに、お母さんがいる産婦人科に入った。
お母さんの状態は、陣痛の周期が不安定で、長い、子宮口の開きが狭い。これは難産を意味する。
5月11日、12日、一向にでてくる気配はみられない。
分娩室隣の待機室で傍ら仮眠をとりながらつき合う。陣痛が起こると時間と周期のメモを取る。しかし、でてくる気配がみられない。
もう2日たつ。陣痛がくると例の、ヒィヒィフー、ヒィヒィフー、ヒィヒィフーと言って対処するしかない。僕は、うろたえるだけである。
5月13日、陣痛がくるが、子宮口は思ったより開かない。そのたびに、お母さんは死にものぐるいである。
ヒィヒィフー、ヒィヒィフー、ヒィヒィフーといいながら悶絶を繰り返す。
胎児の心拍のモニター音が大きく聞こえる。ドクッ、ドクッ、ドクッ、というとしばらく聞こえなくなる。そしてまた聞こえる。聞こえないのは何だるう。ビビル。胎児も1つの命としてがんばっているのだ。しばらくこの状態が続く。
そして、けいおう切開をぎりぎりで退避して、長男を出産した。
3140gで、正常分娩であった。この瞬間の感動とは終わったことがすべてであった。よかったと思った。
お母さんは、汗だくでへとへとであった。が反面、充足感に満ちあふれすべてが終わったという顔をしていた。
これは、いかなる手段を講じても味わえないと思った。
お母さん、いや女性の偉大さ、尊さを思い知った。そしてこの時のお父さんの無力さを感じた。
これが、第一子男子誕生の瞬間であった。
イクメン志願者殿へ、是非とも出産から立ち会ってほしい。
それでないと、意味がないような気がする。

 2011/07/19 (Tue)  at 00:24:26
1992年5月13日、長男出産10日後、産婦人科を退院した。
養生先は宮城県の実家である。ここで約1ヶ月休養した。
出産とは、よほど体力を消耗するらしい。
実家でもしばらくは、ボーとして元気に起きられなかったという。
先生からも、3ヶ月は無理をしないようにと言われていた。
長男はいたく健康で、すくすくと母乳で育つ。
僕は週末には帰省していたがその、成長の変化は著しかった。

お母さんは、産休代替えの先生に任せ、育児休業中である。
育児休業は3年後の次男出産時にも取得した。
お母さんが、”専業主婦”となったのはこの2年間だけである。
言い返すと、僕は2年間だけ専業主婦を持ったことになる。
ちなみに我が家は独立採算制でスタートした。
家事、家計、仕事、育児…基本的にすべて平等に負担する。
いわゆる今で言う、男女共同参画らしい。
これは、経済的な理由よりもお互いの人権を尊重する事であったちなみにそこらにある、役所のこのたぐい企画はかけ声だおれであ。
やめてもらいたい。全く税金の無駄使いである。

男女平等…、しかし、すでに崩れた。
出産事業は女性だけしかできないし、そのリスクは男性には負えない。
まったくをもって、無力であった。まざまざと見せつけられた。
この不平等の帳尻あわせは、最低でも会社を堂々と休んで、できる限り多く育児を担当する事であると思った。

1992年6月、生後1ヶ月、長男は東京の土を踏んだ。
まだ、首が座らない。ほとんど寝ている。
起きているときは、ギャーギャー泣いている。
正真正銘、赤ちゃんである。

★ ILLUSTRATION BY nyao
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